少年将棋教室のほろ苦い記憶
小学校5年生になってしばらくして、友達の紹介で、家の近くの「少年将棋教室」に通うようになりました。
自分の祖父と同年代で、70歳を超えたくらいの、Uさんというおじいさんが先生で、自宅で子供たちに将棋を教える、小さな教室でした。
来ていたのは、自分と同じくらいの年の小学生。ほとんどが同じ学校に通う顔見知り。
それまで将棋は、父親や祖父と、遊び半分でたまに指すくらいでしたが、この教室に入ってからは、がぜん真剣に取り組み始めました。入門書なども買ってみたりして。

当時は、大山・升田・中原の時代でした
その年の夏休みには、藤井聡太七冠の師匠である杉本昌隆八段の、そのまた師匠である板谷進九段の、そのまた父親である板谷四郎九段が主催する将棋大会に、参加したこともありました。
ただ数か月も経たないうちに、飽きっぽい子供たちは、その教室から2人去り、3人去り、多い時は10人以上がいつも顔を出していましたが、秋になる頃まで残っていたのは、たった3人でした。
その3人は、Y君とA君と私。ちなみにこの中で一番強かったのはY君。次がA君で、私が一番弱かった。この二人にはほとんど勝てませんでした。
先生はこの残った3人をとてもかわいがり、自分が持っていた将棋の駒や将棋盤を、贈呈してくれたりもしました。
先生ももうお歳だったので、次の世代に活用してもらいたいと思われたのでしょう。
ちなみに私がいただいた駒は、天童の彫師の方の作品で、「光山」という名前が付いたものでした。それなりの値段がしたものだと思います。



右は天童の彫師の方(先生にいただいた「将棋世界」昭和48年7月号より)
しかし、そんなに良くしてもらったにもかかわらず、私も間もなく、その教室をやめてしまいました。私は2学期になってしばらくして学校の野球部に入部し、そちらに興味が移ってしまったのです。
加えてY君とA君になかなか勝てず、面白くなくなっていたというのもあったんだと思います。
先生にちゃんとお礼も挨拶もせず、なんとなくやめてしまった。やめるんだったらもらった駒を返して来いと、親に言われた気もしますが、それもしなかった。
近所だったので、学校帰りにたまに顔を見ることもありましたが、子供心にもとても気まずく、気づかなかったふりをしたことも何度かありました。
そのうち先生が住んでいた家はとり壊しとなり、少し離れた集合住宅へ引っ越していかれました。
それからはたぶん、お会いしていないと思います。
Y君やA君は、私がやめた後も、先生のもとに通っていたようですが、それがいつまで続いていたのかは、よくわかりません。
子供って残酷ですよね。いまなら良くわかりますが、先生は私がとった行動に対して、ずいぶん傷つかれたのではと思います。
でも当時は、それを思いやれるほど心が育っていなかった。本当に申し訳なかったと、いまでも後悔しています。
で、こんなこともあったので、将棋は指さなくなってしまったのかというと、そんなことはなく、中二になると再び本を買って勉強を始め、同じクラスのN君と、お互いの家に行き来しながら、しょっちゅう指すようになりました。
私の勝率は4割程度でしたが、毎回、新しく覚えた定跡を試してみたりして、楽しく指していました。


向かって右側にひふみん、当時33歳、イケメンです
(先生にいただいた「将棋世界」昭和48年7月号より)
そのN君は、高校生になって(同じ高校でした)将棋部に入り、実力をメキメキと上げて、確か高2の時だったと思いますが、団体戦で全国3位になったという記憶があります。
今回はちょっとほろ苦い思い出を、書かせていただきました。