70~80年代サブカルの部屋

1970~1980年代のサブカルチャーを、自身の記録と記憶から語ります

1970年代のラジオ番組②

今回も1970年代なか頃のラジオ番組についてです。

前回は、お昼に放送していたCBCラジオ制作のローカル番組が中心だったので、今回は夜の番組を中心に。

ラジオを聴き始めたのは小学校5~6年生だったので、夜といっても深夜放送を聴くことはなく、せいぜい10時くらいまで。そこでよく聴いたのが9時台の、やっぱりCBCです。

昭和50年10月~昭和51年3月の、CBCラジオの午後8時~10時台の番組表
この時間帯はすべて、月~金の帯番組でした

まず9時10分からの「柏ヤン・ノンノン 夜のジョッキー」。この番組、ものすごく印象に残っているので、さぞかし長い期間やっていたのだと思っていたら、まさにこの番組表の期間(半年間)しか放送していなかったようです。

柏ヤンは、のちに「お笑いマンガ道場」の司会などでテレビでも有名になった、中国放送出身のアナウンサー柏村武昭。そしてノンノンは、こちらも元日本テレビのアナウンサーだった江川範子。ふたりともアナウンサー出身ということもあって、とってもスマートな番組だった記憶があります。ちなみに柏ヤンは今でも中国放送などで番組を持っているようですね。今度、radikoで聴いてみようと思います。現在80歳だそうです。

左上が当時の江川範子、その下が柏村武昭
そのほか、東京キー局を中心とした有名DJが勢ぞろいです

続いて、9時40分からの「欽ちゃんのドンといってみよう!」。私がラジオを面白がって聴き始めたのは、たぶんこの番組からだと思います。兄貴の影響ですね。「欽ドン」については詳しい解説はあまり要らないと思いますが、萩本欣一はこの番組から始まって、テレビの「欽ドン!」(こちらは「欽ちゃんのドンとやってみよう!」)、「欽どこ!」など、欽ちゃん帝国(世にいう欽ちゃんファミリー)築き上げたんですよね。

はがきの投稿を中心をとしたスタイルは、のちに多くの番組に引き継がれました。番組の内容もさることながら、私の印象に残っているのは提供の集英社が流していたCMですね。「少年ジャンプ」とか「マーガレット」とか。あと「ガッツ」という名前の雑誌?のコマーシャルもありました。一度も読んだことはありませんでしたが、もうちょっとお兄さん向けのものだったのではないかと思います。

初期のころは、先回写真を載せたラジカセで録音して何度も同じものを聴いてました。ある放送回で欽ちゃんが「埼玉県川口市の〜、ノナカ・マ〜サヒロ」とはがきが採用された視聴者の名前を呼んだ場面は、なぜかいまだにその声の感じまで覚えています。ノナカ・マサヒロさん、お元気でいらっしゃいますでしょうか(笑)

そして最後は、つボイノリオの「のりのりだぁー歌謡曲」。「夜のジョッキー」はTBSラジオ、「欽ドン」はニッポン放送制作の全国ネットの番組でしたが、こちらはCBCラジオのローカル番組です。

この番組については、とにかくいろんなことを覚えています。まず私が聞き始めたことはコーリン鉛筆が提供をしていました。「ジブヤングタイム!」とつボイノリオが叫び、そのあとラジオ体操第一の歌がかかって番組が始まっていました。ちなみにジブ(JIB)はコーリンシャープペンシルの商標名です。

そのあと番組を提供したのは、アンネ。「敏感な一週間をできるだけ快適に。アンネ株式会社の提供でお送りします」とつボイノリオがちょっと神妙な声で語るところから番組が始まり、小学生の私には相当刺激的でした。(ちなみに「アンネ」が隠語として何を指すのかは、もちろん、あのねのねの「赤とんぼの唄」で知りました)

また、直前の「欽ドン」をライバル視しており、毎週金曜日にあった「人気DJベストファイブ」のコーナーでは常に自分がダントツ1位、一方で欽ちゃんの悪口をしょっちゅう言ってました。こういうちょっと田舎者の悪ノリ的なところが本当に面白かったですね~。

はがきを読まれた人への景品も「軽石」とか「ブルマ」とか「パンツのゴム10メートル」とかなんだか良くわからないものが多かったです。当時はまだ小学生で、投稿するほどの力量(笑)がなかったのですが、いつも欲しいな~と思ってました。

右上から2番目がつボイノリオ、その下がご存じ欽ちゃん
他もすごいメンバーですな~

ということで今回は、当時の私にとってのゴールデンタイムだったCBCラジオの午後9時台の番組を紹介しましたが、実はこのころの私は、地元で聴けるCBCラジオ東海ラジオのほか、北は北海道から南は沖縄まで、日本中の民放局の番組を聴いていました。そんなこともまた別の機会でお話ししたいと思います。

1970年代のラジオ番組①

今回からしばらく、ラジオのことを書いてみようと思います。

私がナイター中継以外ででラジオを聴き始めたのは、記憶と記録を紐解くと1975年頃から。小学校5年生でした。

二つ年上の兄の影響ですね。それと父親がこのころソニーのラジカセ、CF-1480を買ってきた事も大きかったと思います。

CF-1480、これです。

実は今回のブログを書くにおいて、写真であげられるものが少なかったので、ネットで探して、メルカリで買っちゃいました。

まさかこんなのがまだ手に入るとは思いませんでしたよ。メチャメチャ懐かしい!見ていただいて分かるように、チューニングダイヤルに特徴があるので、今でもそれなりに人気があるのかも。

ラジオのチューニングが合うと、赤色の発光ダイオードが光ります

まぁ私も、1975年に買ったラジオ、GOUGAR115、1977年に買った同じくPROCEED2800を後生大事に持ってるくらいですから、中古市場ではまだたくさん出回ってるんでしょうね。(この2モデルについては、また別の回に)

話を戻します。当時、地元の名古屋にあった民放ラジオはCBCラジオ東海ラジオFM愛知の3局。このうち圧倒的によく聴いていたのはCBC。当時の印象深かった番組をいくつかご紹介します。

まず「土曜天国」。土曜日の午後にやっていた、いわゆる電リク番組です。

電リク、完全に死語ですね。一応言っておきますと、電話リクエストのことです。私が聴いていた頃のパーソナリティは、ご存知つボイノリオ。あ、東海地区以外の皆さんはそれほどご存知じゃないかも。1976年からは、あの兵藤ゆきがアシスタントパーソナリティを務めていました。彼女の方が全国的には知名度は高いですよね。ちなみに彼女は私の兄の高校の先輩です。

毎週土曜日、学校が終わって家に帰ると、電話リクエスト受付電話番号の291-0007につながるまで何度も何度も電話をかけました。もちろん黒電話の時代です。0が多い番号なので、ダイヤルを回したあと戻るまでに時間がかかってじれったかったことをよく覚えています。

この番組は、当時CBCにあったサテライト型のレインボースタジオというところから放送されていました。このスタジオ、ショーウィンドウのようになっていて、放送をしているところが、外から見えるんですよね。

CBCまでは、当時住んでいたところから自転車でも何とか行ける距離だったので、時々見に行ってました。兵藤ゆきにパーソナリティが変わった第一回目の放送(1976年4月)も「どんな人か見にいこうぜ」という事で、友達と自転車をこいで行ったことを覚えています。

続いて「オー!!サンデー」。こちらは日曜日の午後の番組です。

パーソナリティは当時、CBCの若手人気アナウンサーだった多田しげお。こちらはCBC内にある第一スタジオからの公開生放送でした。

こちらも何回か行きましたねー。4時間という長丁場の番組でしたが、レインボースタジオと違って屋内のスタジオで椅子に座ってゆっくり見られるので、早めに行って並んで、番組が終わる午後5時まで見てました。

まだ俳優として人気が出るずっと前で、CBCのナイター中継で解説をしていた頃の坂東英二が「バンちゃんの野球道場」というコーナーを持っていて、当時まだドラゴンズで現役だった高木守道氏の事を、愛を込めてよくおちょくってましたね。懐かしいです。

その後、広川太一郎がパーソナリティを務めた「オーサンデー 歌謡ジャンボ」をはさんで野口小太郎、板東英二、ハリケーン青木などがパーソナリティーを務めた第二期も、何度か行きました。

そしてその坂東英二がメインパーソナリティを務めていたのが、平日の午後に放送をしていた「ばつぐんジョッキー」。

これは聴いていた記録がちゃんと残っています。夏休みや冬休みに聴いてたんですよね。

小学校6年の夏休みの私の日記 笑えます

そもそも平日の昼間にラジオを聴いているのはたいてい主婦の方、あるいは自営の方くらい。当然そういうリスナー向けの内容になんですが、それを小学生が聴いて喜んでいたわけです。変な小学生でした。

ちなみに坂東英二は月曜日を担当していて、木曜日を担当していたのは上岡龍太郎。元中日のピッチャーだった坂東英二と、大阪出身で大の阪神ファンだった上岡龍太郎は、中日と阪神の代理戦争よろしくしょっちゅう悪口を言い合ってましたが、実際のところ坂東英二上岡龍太郎をとても尊敬しており、芸能界の先輩である上岡からいろいろアドバイスをもらっていたそうです。

ちなみに、つボイノリオは今でもCBCラジオで番組を持っていますし、多田しげおも、今年の3月まで朝の番組でメインパーソナリティーを務めていました。私が聞き始めたところから数えても約50年。すごいです。

おっと、CBCのローカル番組を3つ紹介しただけなのに、えらく長くなっちゃいました。次回は、東京のキー局ネットのラジオ番組、あるいは名古屋以外の放送局などについてお話します。

ところで、上の写真の番組表は、この雑誌から持ってきています。

ラン・ラジオ。全国のラジオ局のタイムテーブル(番組表)が載ってました。当時の私にとってはバイブルでした。小学生のころに買ったものは紛失してしまったのですが、今から5-6年前、アマゾンで新品で出ていたものを再購入しました。発行されて40年以上経過している雑誌の新品が存在してるって、どういうことなんでしょうね。

昭和40年代後半から50年代後半にかけての高校野球(その2)

前回は1973年から1977年にかけてのお話をさせていただきましたが、今日は1978年から1982年(私は中3から大学1年)まで。

まず1978年ですがPL学園が初優勝をした年でした。桑田・清原が入学したのは1983年ですので、まだその5年前です。

この年の大会で最もよく覚えているのは、準決勝第一試合、地元の中京高校が九回表まで4-0で勝っていたのも関わらず、PL学園にその裏に追いつかれ、延長十二回でサヨナラ負けをした試合です。

1978年のアサヒグラフ・特別増大号より

この試合、夏の暑い日にテレビで見てましたが、いやぁがっくりしました。その時の感覚は、46年経った今でもなぜか忘れられません。ちなみにこの年のPL学園には、のちに広島に行った西田や、阪神に行った木戸などがいた強いチームでしたから、しょうがなかったのかもしれませんが。

そして私はこのころ、高校野球の試合のスコアブックを良くつけていて、この試合のものも残っています。スコアラーでもマネージャーでもないんですが(笑)

良く見えないかもしれませんが、十二回までの記録が残っています

そして翌1979年には、西武に行った石井毅を擁する箕島が優勝。ちなみにこの年の春の選抜大会は、ドカベン香川と牛島のバッテリーで、浪商が制しています。

この大会での名勝負は、なんといっても延長十八回までもつれた、箕島と星稜の試合ですね。先攻の星稜一点リードで迎えた十六回裏、箕島の攻撃二死走者なし、一塁横へのファールフライで試合終了かと思いきや、星稜一塁手が人工芝の端に足を取られて転倒。そのあとホームランが出て箕島に同点に追いつかれ、十八回に箕島がサヨナラ勝ち。これも見てました。ファールフライを取り損ねた瞬間も。午後4時過ぎに始まった試合が終わったのは、8時近くでした。

一塁手転倒の瞬間(アサヒグラフより)

しかしこの試合、両チームのピッチャーは18回を一人で投げ切ってるんですよね。今ならあり得ないです。

そして1980年には早稲田実業荒木大輔が一年生でさっそうとデビュー。決勝で愛甲の横浜高校に敗れたものの、準決勝までの5試合で無失点、一躍スターとなった年でもありました。

荒木大輔愛甲猛(いずれもアサヒグラフより)

そして1981年は準決勝で工藤公康の名古屋電気(現・愛工大名電)と金村義明報徳学園が対戦。私はこの時高3だったので、彼らは同学年なわけです。ちなみこの年の春の選抜は大府高校が愛知県から出場しており、その時のピッチャーは槙原寛己でした。ということで、彼も同じ愛知県で同学年。

工藤公康金村義明(いずれもアサヒグラフより)

この試合、工藤が打たれて報徳学園が勝ちました。ものすごく朧げな記憶なのですが、この日は、高校に行って大学受験のための模試を受けていて、その時、体育教官室のラジオから、この試合の中継がかすかに教室まで聞こえてきていたような、いないような・・・

報徳は決勝でも京都商業を破り、初優勝を遂げます。

そして1982年。この年はエースで4番の畠山の活躍で池田が初優勝。水野雄仁はまだ2年生でレフトを守っていましたがしたが、すでに大物の片りんを見せていました。そして3年生になった荒木大輔早実は、準々決勝で池田に大敗。春夏合わせ5期連続で甲子園に出場した荒木ですが、結局1年の夏の準優勝が最高で、優勝には恵まれませんでした。

ということで、昭和40年代後半から50年代後半までの高校野球(夏の大会)の、記憶と記録に基づいた振り返り、以上です。そしてこの10年間を総括して出た結論は次の通り。

「イケメンは、たとえ実力があったとしても、優勝はできない。原辰徳しかり、バンビ坂本しかり、荒木大輔しかり。」(そこかいな!)

まだ春の選抜もあるのですが、それはまたの機会に。

最後になりましたが、以下がわが家にあるアサヒグラフの特別増大号(甲子園特集号)のすべてです。

下段右は60回大会記念号

 

昭和40年代後半から50年代後半にかけての高校野球(その1)

今日は、高校野球についてです。

高校野球に対しては「今年の夏の大会は、どこが優勝したんでしたっけ?京都国際?あーそういえばそうでしたね」というくらいの感じです、今は。

そんな私にとって高校野球が最も旬だったのは、1973年から1982年まで、小学校4年生から大学1年生までの10年間でした。今回はその前半の5年間の「夏の甲子園」について、いつものように手元に保管されている資料をベースにお話しします。

これは1975年に私が最初に買った朝日グラフの特別増大号
このころ夏の大会が終わると、必ず朝日グラフを買っていました
表紙は原辰徳です(この時は2年)

1973年、この年から高校野球をしっかり観るようになりました。作新学院江川卓が3年生でしたが、作新は2回戦で翌年優勝する銚子商業に敗れてます。そして優勝は広島商業。決勝戦についてのこんな観戦記が、私の小学校4年の夏休みの日記から発掘されました。

当時私は静岡県に隣接する愛知県の某市に住んでいたので、静岡高校に肩入れをしていたのだと思います(赤い文字は担任のK先生のコメント)

そして翌1974年は、銚子商業が土屋正勝を擁して優勝。この年は、夏休みの自由研究として高校野球に関する新聞記事をスクラップしており、こんなものも残っていました。

左が愛知県大会の決勝戦の記事
優勝した名古屋電気工業(今の愛工大名電)はこの年が甲子園初出場
右は、銚子商業が甲子園で優勝した翌日の朝刊
エースの土屋はプロでは花を咲かせられませんでしたが、このチームの4番は巨人で大活躍をした篠塚でした

1975年は習志野が千葉県に2年連続の優勝をもたらし、当時、ものすごい人気だった原辰徳東海大相模は準々決勝で敗退。1976年は桜美林が60年ぶりに東京に優勝をもたらし、やっぱり東海大相模は2回戦で敗退。甲子園の神様は、原には微笑まなかったんですね~。でもって私ったら、1975年にこんな日記を。

先生のコメントにもあるように、なんでこんなにアンチ原辰徳だったんでしょう 謎ですね
それにしても小学6年生の自分、自由すぎます

そして1977年は、バンビ坂本の東邦が準優勝。決勝戦、リアルタイムで見ていたことを今でもよく覚えていますが、地元の学校だったということもあって悔しかったですね。しかし当時、すでに東邦の監督だった坂口慶三さんが今年の3月まで大垣日大で監督をしていたというのは、本当に驚きですな~

1977年の朝日グラフより マウンドでの笑顔が話題になって大人気に
私の住んでいた町に東邦の練習グランドがあったのですが、大会のあとはすごくたくさんの人が坂本を見に来ていたようです

ちなみにこの年は、後に中日のエースとなった小松辰雄を擁した星稜と、同じく近鉄で活躍した山口哲治智弁学園が一回戦で当たっています。

小松と山口の投げ合いは山口に軍配が これもリアルタイムで見たのを何となく覚えてます

というわけで、今回は10年間のうちの前半の5年を紹介しました。後半の5年間にも新しい甲子園のヒーローたちが誕生しますが、それはまた次回に。

 

番外編・ダブとファンクを観る②(ファンク)

番外編その②、今日は「ファンク」を観に行ったお話です。

ファンクといっても、ドリー、テリーではありません。

先日書いた「ダブ」と同じく音楽のジャンルですが、ダブよりは幾分メジャーですかね。

ファンクもジャズやブルース、R&Bと同じく、黒人起源のブラックミュージックのひとつですが、よりリズムに重点が置かれており、ソウルとディスコの懸け橋になったなどともいわれています。

文章で説明するのは難しいのですが、例えば「ゲロッパ」でおなじみのジェームス・ブラウンの名曲「Sex Machine」なんかがファンクだと言えばわかりやすいですかね。

そのほかにも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンやクール&ザ・ギャング、そしてプリンスなんかもこのジャンルの人達です。

日本では、私が大好きなJAGATARAや、わかりやすいところでいうとバルブガム・ブラザーズの「Won't Be Long」なんかもファンクですね。

ジェームス・ブラウンJAGATARAのレコード

ただこの面々、主に活躍をしたのは1960年代後半から1980年代半ばまでで、すでに亡くなっているか、コンスタントな音楽活動をしていない人たちが大半です。

その中で、現在でも活躍している、おそらく現役最高齢のファンクミュージシャンが、ジョージ・クリントン

ジョージ・クリントンパーラメントファンカデリックという二つのバンド(メンバーはほぼ同じなんですが)を率いて1960年代の後半から活動を開始していて、特に70年代に多くのヒットを生みました。

彼らの音楽は、この二つのバンドの名前からとって「Pファンク」と呼ばれていました。

その彼らが先月「パーラメント ファンカデリック Feat. ジョージ・クリントン」として来日して、名古屋でもライブを演ったわけです。

私が、ジョージ・クリントンの存在を知ったのは、1980年代前半。といってもパーラメントファンカデリックは、当時ブラックミュージック初心者だった私にはちょっと敷居が高かったんですよね。

そこで手に入れたのは、ウィリアム・ブーツィ・コリンズが当時ニューアルバムとして出ていた「灼熱のP-ファンカー」(すごい邦題!)でした。

彼はパーラメント/ファンカデリックのベーシストであり、ジェームス・ブラウンのバックバンドメンバーでもあった人物です

ブーツィ・コリンズの「灼熱のP-ファンカー」

このド派手なアルバムジャケットに惹かれ、ついつい買ってしまった記憶があるようなないような。1982年のことです。

このあと私は、キング・サニー・アデなどのアフリカものも含め、ブラックミュージックにどんどん傾倒していくのですが、このP-ファンク軍団はなぜかこれ以上深追いすることもなく(70年代後半の旬の時代を逃してしまっていたからかもしれません)、何となく気になる存在、くらいのままで月日は流れました。

そしてこの数年、Apple MusicからP-ファンクのアルバムをダウンロードしてちょっと聞いてみたり、トーキング・ヘッズストップ・メイキング・センスに、パーラメントファンカデリックの中心メンバーでキーボーディストのバーニー・ウォレルが参加していたことをあらためて知り、おおっ、と思ったりしていたところに、ジョージ・クリントンの名古屋公演の情報が飛び込んできたわけです。

ジョージ・クリントン御大は、すでに83歳。前回の番外編でも書いた「生きているうちに観ておかないと後悔する」精神を発揮させて、すぐにチケットを取り、まだ暑さが残る先月の中旬に、ダイアモンドホールに足を運びました。

そもそも私の周りには「私、ブラックミュージックが大好きなんです!」なんて健気な人はまったくいないので、どんな人が集まってくるんだろうかと興味津々でした。

オープン前に着き、少し並んで会場に入りましたが、この前の週のDUBのライブに比べると年齢層はちょっと高め。若いころ「ソウルトレイン」にはまってました的な、私より少し年上かなと思われる方も結構来ていました。まぁソウルトレインとファンクはちょっと違いますが。

80年代前半までの、クラブ化する前のいわゆる「ディスコ」で踊りまくっていて、あこがれのダンサーはテディ・団です!みたいな人はやはりあまりいませんでしが、実は変わり果てていて、実際はそうだったという方々は、いらっしゃったのかもしれません。

ここからはライブについてですが、まぁそれはすごかったです。とにかく大人数で大音量!翌日もまだ耳がチーンとしてました。

で、83歳の御大、ジョージ・クリントンはどんな感じだったかというと、こちらもノリまくり。そして大御所感が半端なかったです!

ですがそこは83歳、三分の二くらいはほかのメンバーにヴォーカルを任せ、ドラムセットの前に置いた椅子に座って休憩を取ります。

御大、座って休憩中

バンドメンバーのほとんどは若い人たちに入れ替わっていますが、70年代の全盛期を彷彿とさせるファンクミュージックであることには変わりはありません。カッコよすぎます。

ドラゴンズの外国人選手ではありません 客席に降りてきたメンバーです

出ているアルバムが多いので、何を予習していったらよいのかもよくわからず、とりあえず有名な曲としてGive Up the FunkとMaggot Brainは覚えていきましたが、両方ともちゃんとやってくれました。Give Up the Funkはなんか途中で終わっちゃった気がしましたが。

てな感じで、あっというまの2時間15分でしたが、自分はつくづくこういうのが好きなんだなぁと再認識できました。

この日の出来事は、一生自慢できると思います。といっても自慢できる相手がまわりにほとんどいませんが・・・

少年ジャンプにかかわる思い出

今回は、1970年代半ばの少年ジャンプについて書いてみようと思い、家に残っている古いものをいろいろ探してみました。

振り返ってみると、自分で本屋に行って自分の小遣いでマンガの本を買うようになったのは、小学校の3年生くらいからですかね。

当時、愛知県東部にある小さな町に住んでいて、自転車で5分くらい走ったところに「愛新堂」というちょっと大きめの本屋さんがあり、立ち読みも含めてよく行ってました。

そこで、初めて単行本で全巻揃えたのが、週刊少年ジャンプに連載されていた「荒野の少年イサム」でした。

荒野の少年イサム、第1巻

原作は山川惣治、作画は「巨人の星」や「いなかっぺ大将」などですでに有名だった川崎のぼる

調べてみたら、週刊少年ジャンプへの連載は1971年9月から1973年末あたりまででした。

この第1巻を購入したのは、巻末に記載がある発行日から判断すると1973年10月以降なので、連載に合わせてというよりも、連載終了間際から買い始めた感じです。

川崎のぼる、とにかく絵が丁寧でうまかったですよね。

独特のタッチで、劇画調のものもギャグマンガも両方こなす、ものすごい才能の持ち主だったと思います。

荒野の少年イサム、第1巻より。このスピード感あふれる画風の虜に当時なってました

これ以外にわが家にある、荒野の少年イサムと同時代のジャンプコミックスは、「ぼくの動物園日記」、今でもテレビCMで使われる息の長いキャラクターぴょん吉を生み出した「ど根性ガエル」、そして中学野球マンガ「キャプテン」

意外に少なかったです。

「ぼくの動物園日記」は、実在の人物で上野動物園の飼育係だった西山登志雄の半生を描いた漫画です。動物との交流に関する心温まるいい話が多く、好きでした。

ぼくの動物園日記、第1巻より

ど根性ガエル」は私が書くまでもなく、当時のジャンプの大ヒット作。

主人公のひろしが中学生で、しかも彼を取り巻く大人(梅さんとか南先生とか)に関する話題も多く、当時、小学校の2-3年だった自分は、この「ど根性ガエル」を読むと、少し背伸びをした気分になれたような記憶があります。

ど根性ガエル、第21巻より

「キャプテン」はもう好きすぎるので、別の回で続編の「プレイボール」と一緒に書きます。

ちなみに、好きな漫画家を3人挙げろと言われたら、私の場合、ちばあきお(キャプテンの作者)、小林まこと(1・2の三四郎の作者)、そして3人目は・・・あえて言うなら、水木しげる佐々木倫子か小林じんこか上条淳士か、という感じです。

キャプテン、第1巻。読みすぎて背表紙はビリビリ

キャプテン、第1巻より

ちなみに「キャプテン」は、週刊少年ジャンプではなく月刊少年ジャンプで連載されていました。「プレイボール」晴れて週刊少年ジャンプでの連載に。

そしてこれらは、当時のジャンプに連載されていた人気漫画です。

永井豪の「ハレンチ学園」や池沢さとしの「あらし!三匹」はいかにもジャンプらしいマンガでしたよね。

ちなみに池沢さとしはこのあとジャンプに、名作「サーキットの狼」を残しました。

侍ジャイアンツ」「アストロ球団」。巨人の星に続く、魔球もの野球漫画はこのころがピークだったと思います。

そして「包丁人味平」。第一話をリアルタイムで読んだ記憶があります。またここにはありませんが、今でも語り継がれている「はだしのゲン」もこのころでしたね。

いま、私が所有しているもっとも古い週刊少年ジャンプはこれ、1984年7月9日号。

キン肉マン」「北斗の拳」「Dr.スランプ」「キャッツアイ」「キャプテン翼」「こち亀」など、歴史に残る名作が多数連載されていたころです。

そしてこの翌年、1985年に「ドラゴンボール」の連載が始まります。ちょうど私がジャンプを読み始めてから、干支が一回りしたころです。

そしてそこからさらに干支が一回りした1997年「ONE PIECE」の連載がスタートします。

ドラゴンボール」と「ONE PIECE」の第1巻

このあたりになると、自分ではなく息子の時代となりますが、いまだに親子で、ジャンプに連載をしていたマンガで大いに盛り上がります。

番外編・ダブとファンクを観る①(ダブ)

強烈なライブへ二週間続けて行ってきてしまったので、これまでの流れとは全く違うのですが、本日は番外編としてレポートをします。

タイトルにあるダブとファンク、何?という方も多いかもしれませんが、いずれも音楽のジャンルです。生まれた国は違いますが、世界中に広がっていったのはやはり1970年代でした。

まずダブというのは、レゲエの楽曲に対し、エコーやリバーブなどのエフェクトを施して、ベースやドラムなどのリズムを強調したもの。

いまでこそリミックスとかサンプリングとか良くある話ですが、それらの元祖のようなものだと言われることもよくあります。

ダブは1960年代後半にジャマイカで生まれ、当時はシングルレコードのB面に使われる脇役的な存在だったのですが、1970年代後半からダブ処理をした曲自体が前面に出てくるようになりました。

また、ジャマイカからの移民が多く、レゲエのミュージシャンも豊富だったUKでも、ダブは広がっていきました。

UKダブの第一人者と言われるデニス・ボヴェールの1980年のアルバム。私が初めて買ったダブのレコードです。高2の時でした。

その影響もあって、1980年前後になると、UKのパンクやニューウェーブのミュージシャンがダブを積極的に取り入れるようになりました。

クラッシュ、ポリス、XTC、PIL、ポップ・グループ、スリッツ、メジャーなところではカルチャークラブ、日本でも坂本龍一などが、ダブや、ダブ的な音処理をした曲を多く生み出していたりします。

左は1980年にリリースされたクラッシュの「Sandinista!」。このアルバムでクラッシュは、ダブのみならず様々な音楽にチャレンジしました。右側はご存じポリスのセカンドアルバム「白いレガッタ」。B面1曲目の「Walking On The Moon」がしっかりダブしています。

左側はXTCが1980年にリリースした「Black Sea」。エンジニアのスティーブ・リリィ・ホワイトのダブ的な音の処理が光っています。そして出ましたカルチャークラブ。最初のヒット曲「君は完璧さ」のシングルのB面はダブ・バージョンでした。

そしてその当時、UKダブミュージックシーンをけん引していたのが、エンジニアでプロデューサーでもあり、自らダブのレーベルも立ち上げていたエイドリアン・シャーウッド(現在66歳)。

そのエイドリアン・シャーウッドがプロデュースをし、1977年に結成された人気UKダブバンド、クリエイション・レベル

ジャマイカ出身で1990年代にUKに渡り、UKのバンドと組んで全英ヒットチャートに何曲もの作品を送り込んだ、レゲエシンガーのホレス・アンディ(現在73歳)。

左はエイドリアン・シャーウッドがプロデュースをした、UKダブの金字塔的な作品ともいえる「The New Age Steppers」。右は同じくエイドリアン・シャーウッドプロデュースによる、クリエイション・レベルの代表作の一つ「Psychotic Jonkanoo」

前置きが長くなりましたが、この3組が、先々週、東京と大阪と名古屋で集結してしまったのです!

特に80年代前半、私は無類のダブ好きだったので、いまでも読み続けている「ミュージック・マガジン」のイベント情報のコーナーで彼らのライブのことを知った時には(あー、なんとアナログな情報収集なんだろう)、このメンバーと、そしてまだ彼らが元気にツアーをしているんだということに、衝撃と感銘を受けました。

そしてすぐにチケットを取り(こちらはもちろんオンラインで。プレイガイドにチケットを買いに走ったということはさすがにないです)、まぁこれに付き合ってくれる人は誰もいないだろうということで、一人で盛り上がってきました。

オープニングアクトを含めて4時間強、出演者の交代時に10分程度の休憩がそれぞれあったものの、スタンディングで踊りっぱなし。でもアドレナリンが出まくっていたせいか、時間の長さは全く感じませんでした。

エイドリアン・シャーウッドがDJを務め、その場でダブミックスをしまくりながら曲をかけていく第一部、オリジナルメンバー3人を含むクリエイション・レベルが、生のダブサウンドを炸裂させた第二部、そしてクリエイション・レベルをバックに、ホレス・アンディが73歳とは思えぬ高い、透明な声で1時間半歌い続けた第三部。

いや、この年になって、こんなものすごいものが観れるなんて、夢にも思いませんでしたよ。

ミキシングマシンを駆使しながらダブミュージックをクリエイトしてくエイドリアン・シャーウッド。なんと植木等の「スーダラ節」のダブバージョンをやってくれました!
クリエイション・レベルのギタリスト、クルーシャル・トニーとドラマーのエスキモー・フォックスは、結成当時からのオリジナルメンバー。

ホレス・アンディ、73歳。かつてのようなファルセットボイスはあまり聞けませんでしたが、地声でも十分声は高く、とてもいい味を出していました。

ホレス・アンディーとクルーシャル・トニーとエスキモー・フォックス。レジェンド感満載の三人。

で、終わったころには太ももとふくらはぎがパンパン。ライブ会場から最寄り駅までの道はちょっとふらつき気味。60歳の体は正直でした。

ちなみにどんな人たちが観に来ていたかというと、実は年齢層は意外に低く、平均35歳くらい。自分のようなオールドファンももちろんいましたが、若い人たちのほうが目立ってました。

またこの手のライブにつきものの、暴れるやんちゃな奴らも、ごく少数ですがいました。1990年代前半に、スカの某バンドを観に行った時も同じようなことがあったことを思い出し、一瞬、デジャブかと思っちゃいました(笑)

こういった若い人たちが多いのには理由があるようです。

今から十数年前にDJをやっている知人から聞いたんですけど、ある時期からダブは、クラブミュージックとしてテクノ、ハウスなどとともに、エレクトロニカの一つとして再評価?されていったそうで、そういったものを聞いてきた20代、30代の人たちの間でも、なじみのある音楽になっているようなのです。

まぁそんなこともあって集客がある程度見込まれ、ツアーも実現したのかもしれませんが、こういうのを観ると、ほかのレゲエのミュージシャンの来日も、あらためて期待したくなってしまいます。

シュガー・マイノットやグレゴリー・アイザックスやデニス・ブラウンなど。

って調べてみたら3人とももう亡くなっていますね。でもフレディ・マクレガーやイエローマンはまだ生きているみたい。そしてスライ・ダンバーも。

左がシュガー・マイノット、右がグレゴリー・アイザックス。もう観れないんですよね。たとえジャマイカに行ったとしても。

ここ最近「生きているうちに観ておかないと、後悔する!」と自分に言い聞かせ、ぴあや興行会社のSMASHから送られてくるメルマガをマメにチェックし、見逃しがないように努めています。

70年代、80年代に活躍したミュージシャンたちがいつまで生きているか?その前にいつまで日本にツアーで来てくれるか?そしてもっとその前に自分がいつまでライブに行ける体力と健康を保つことができるのか?課題は山積です(笑)

ということで、今回はダブのことだけでたくさん書いちゃいました。思い入れありすぎ?ということで、ファンク編はまた別の機会に!