前回は1973年から1977年にかけてのお話をさせていただきましたが、今日は1978年から1982年(私は中3から大学1年)まで。
まず1978年ですがPL学園が初優勝をした年でした。桑田・清原が入学したのは1983年ですので、まだその5年前です。
この年の大会で最もよく覚えているのは、準決勝第一試合、地元の中京高校が九回表まで4-0で勝っていたのも関わらず、PL学園にその裏に追いつかれ、延長十二回でサヨナラ負けをした試合です。
この試合、夏の暑い日にテレビで見てましたが、いやぁがっくりしました。その時の感覚は、46年経った今でもなぜか忘れられません。ちなみにこの年のPL学園には、のちに広島に行った西田や、阪神に行った木戸などがいた強いチームでしたから、しょうがなかったのかもしれませんが。
そして私はこのころ、高校野球の試合のスコアブックを良くつけていて、この試合のものも残っています。スコアラーでもマネージャーでもないんですが(笑)
そして翌1979年には、西武に行った石井毅を擁する箕島が優勝。ちなみにこの年の春の選抜大会は、ドカベン香川と牛島のバッテリーで、浪商が制しています。
この大会での名勝負は、なんといっても延長十八回までもつれた、箕島と星稜の試合ですね。先攻の星稜一点リードで迎えた十六回裏、箕島の攻撃二死走者なし、一塁横へのファールフライで試合終了かと思いきや、星稜一塁手が人工芝の端に足を取られて転倒。そのあとホームランが出て箕島に同点に追いつかれ、十八回に箕島がサヨナラ勝ち。これも見てました。ファールフライを取り損ねた瞬間も。午後4時過ぎに始まった試合が終わったのは、8時近くでした。
しかしこの試合、両チームのピッチャーは18回を一人で投げ切ってるんですよね。今ならあり得ないです。
そして1980年には早稲田実業の荒木大輔が一年生でさっそうとデビュー。決勝で愛甲の横浜高校に敗れたものの、準決勝までの5試合で無失点、一躍スターとなった年でもありました。
そして1981年は準決勝で工藤公康の名古屋電気(現・愛工大名電)と金村義明の報徳学園が対戦。私はこの時高3だったので、彼らは同学年なわけです。ちなみこの年の春の選抜は大府高校が愛知県から出場しており、その時のピッチャーは槙原寛己でした。ということで、彼も同じ愛知県で同学年。
この試合、工藤が打たれて報徳学園が勝ちました。ものすごく朧げな記憶なのですが、この日は、高校に行って大学受験のための模試を受けていて、その時、体育教官室のラジオから、この試合の中継がかすかに教室まで聞こえてきていたような、いないような・・・
報徳は決勝でも京都商業を破り、初優勝を遂げます。
そして1982年。この年はエースで4番の畠山の活躍で池田が初優勝。水野雄仁はまだ2年生でレフトを守っていましたがしたが、すでに大物の片りんを見せていました。そして3年生になった荒木大輔の早実は、準々決勝で池田に大敗。春夏合わせ5期連続で甲子園に出場した荒木ですが、結局1年の夏の準優勝が最高で、優勝には恵まれませんでした。
ということで、昭和40年代後半から50年代後半までの高校野球(夏の大会)の、記憶と記録に基づいた振り返り、以上です。そしてこの10年間を総括して出た結論は次の通り。
「イケメンは、たとえ実力があったとしても、優勝はできない。原辰徳しかり、バンビ坂本しかり、荒木大輔しかり。」(そこかいな!)
まだ春の選抜もあるのですが、それはまたの機会に。
最後になりましたが、以下がわが家にあるアサヒグラフの特別増大号(甲子園特集号)のすべてです。