70~80年代サブカルの部屋

1970~1980年代のサブカルチャーを、自身の記録と記憶から語ります

番外編・ダブとファンクを観る②(ファンク)

番外編その②、今日は「ファンク」を観に行ったお話です。

ファンクといっても、ドリー、テリーではありません。

先日書いた「ダブ」と同じく音楽のジャンルですが、ダブよりは幾分メジャーですかね。

ファンクもジャズやブルース、R&Bと同じく、黒人起源のブラックミュージックのひとつですが、よりリズムに重点が置かれており、ソウルとディスコの懸け橋になったなどともいわれています。

文章で説明するのは難しいのですが、例えば「ゲロッパ」でおなじみのジェームス・ブラウンの名曲「Sex Machine」なんかがファンクだと言えばわかりやすいですかね。

そのほかにも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンやクール&ザ・ギャング、そしてプリンスなんかもこのジャンルの人達です。

日本では、私が大好きなJAGATARAや、わかりやすいところでいうとバルブガム・ブラザーズの「Won't Be Long」なんかもファンクですね。

ジェームス・ブラウンJAGATARAのレコード

ただこの面々、主に活躍をしたのは1960年代後半から1980年代半ばまでで、すでに亡くなっているか、コンスタントな音楽活動をしていない人たちが大半です。

その中で、現在でも活躍している、おそらく現役最高齢のファンクミュージシャンが、ジョージ・クリントン

ジョージ・クリントンパーラメントファンカデリックという二つのバンド(メンバーはほぼ同じなんですが)を率いて1960年代の後半から活動を開始していて、特に70年代に多くのヒットを生みました。

彼らの音楽は、この二つのバンドの名前からとって「Pファンク」と呼ばれていました。

その彼らが先月「パーラメント ファンカデリック Feat. ジョージ・クリントン」として来日して、名古屋でもライブを演ったわけです。

私が、ジョージ・クリントンの存在を知ったのは、1980年代前半。といってもパーラメントファンカデリックは、当時ブラックミュージック初心者だった私にはちょっと敷居が高かったんですよね。

そこで手に入れたのは、ウィリアム・ブーツィ・コリンズが当時ニューアルバムとして出ていた「灼熱のP-ファンカー」(すごい邦題!)でした。

彼はパーラメント/ファンカデリックのベーシストであり、ジェームス・ブラウンのバックバンドメンバーでもあった人物です

ブーツィ・コリンズの「灼熱のP-ファンカー」

このド派手なアルバムジャケットに惹かれ、ついつい買ってしまった記憶があるようなないような。1982年のことです。

このあと私は、キング・サニー・アデなどのアフリカものも含め、ブラックミュージックにどんどん傾倒していくのですが、このP-ファンク軍団はなぜかこれ以上深追いすることもなく(70年代後半の旬の時代を逃してしまっていたからかもしれません)、何となく気になる存在、くらいのままで月日は流れました。

そしてこの数年、Apple MusicからP-ファンクのアルバムをダウンロードしてちょっと聞いてみたり、トーキング・ヘッズストップ・メイキング・センスに、パーラメントファンカデリックの中心メンバーでキーボーディストのバーニー・ウォレルが参加していたことをあらためて知り、おおっ、と思ったりしていたところに、ジョージ・クリントンの名古屋公演の情報が飛び込んできたわけです。

ジョージ・クリントン御大は、すでに83歳。前回の番外編でも書いた「生きているうちに観ておかないと後悔する」精神を発揮させて、すぐにチケットを取り、まだ暑さが残る先月の中旬に、ダイアモンドホールに足を運びました。

そもそも私の周りには「私、ブラックミュージックが大好きなんです!」なんて健気な人はまったくいないので、どんな人が集まってくるんだろうかと興味津々でした。

オープン前に着き、少し並んで会場に入りましたが、この前の週のDUBのライブに比べると年齢層はちょっと高め。若いころ「ソウルトレイン」にはまってました的な、私より少し年上かなと思われる方も結構来ていました。まぁソウルトレインとファンクはちょっと違いますが。

80年代前半までの、クラブ化する前のいわゆる「ディスコ」で踊りまくっていて、あこがれのダンサーはテディ・団です!みたいな人はやはりあまりいませんでしが、実は変わり果てていて、実際はそうだったという方々は、いらっしゃったのかもしれません。

ここからはライブについてですが、まぁそれはすごかったです。とにかく大人数で大音量!翌日もまだ耳がチーンとしてました。

で、83歳の御大、ジョージ・クリントンはどんな感じだったかというと、こちらもノリまくり。そして大御所感が半端なかったです!

ですがそこは83歳、三分の二くらいはほかのメンバーにヴォーカルを任せ、ドラムセットの前に置いた椅子に座って休憩を取ります。

御大、座って休憩中

バンドメンバーのほとんどは若い人たちに入れ替わっていますが、70年代の全盛期を彷彿とさせるファンクミュージックであることには変わりはありません。カッコよすぎます。

ドラゴンズの外国人選手ではありません 客席に降りてきたメンバーです

出ているアルバムが多いので、何を予習していったらよいのかもよくわからず、とりあえず有名な曲としてGive Up the FunkとMaggot Brainは覚えていきましたが、両方ともちゃんとやってくれました。Give Up the Funkはなんか途中で終わっちゃった気がしましたが。

てな感じで、あっというまの2時間15分でしたが、自分はつくづくこういうのが好きなんだなぁと再認識できました。

この日の出来事は、一生自慢できると思います。といっても自慢できる相手がまわりにほとんどいませんが・・・

少年ジャンプにかかわる思い出

今回は、1970年代半ばの少年ジャンプについて書いてみようと思い、家に残っている古いものをいろいろ探してみました。

振り返ってみると、自分で本屋に行って自分の小遣いでマンガの本を買うようになったのは、小学校の3年生くらいからですかね。

当時、愛知県東部にある小さな町に住んでいて、自転車で5分くらい走ったところに「愛新堂」というちょっと大きめの本屋さんがあり、立ち読みも含めてよく行ってました。

そこで、初めて単行本で全巻揃えたのが、週刊少年ジャンプに連載されていた「荒野の少年イサム」でした。

荒野の少年イサム、第1巻

原作は山川惣治、作画は「巨人の星」や「いなかっぺ大将」などですでに有名だった川崎のぼる

調べてみたら、週刊少年ジャンプへの連載は1971年9月から1973年末あたりまででした。

この第1巻を購入したのは、巻末に記載がある発行日から判断すると1973年10月以降なので、連載に合わせてというよりも、連載終了間際から買い始めた感じです。

川崎のぼる、とにかく絵が丁寧でうまかったですよね。

独特のタッチで、劇画調のものもギャグマンガも両方こなす、ものすごい才能の持ち主だったと思います。

荒野の少年イサム、第1巻より。このスピード感あふれる画風の虜に当時なってました

これ以外にわが家にある、荒野の少年イサムと同時代のジャンプコミックスは、「ぼくの動物園日記」、今でもテレビCMで使われる息の長いキャラクターぴょん吉を生み出した「ど根性ガエル」、そして中学野球マンガ「キャプテン」

意外に少なかったです。

「ぼくの動物園日記」は、実在の人物で上野動物園の飼育係だった西山登志雄の半生を描いた漫画です。動物との交流に関する心温まるいい話が多く、好きでした。

ぼくの動物園日記、第1巻より

ど根性ガエル」は私が書くまでもなく、当時のジャンプの大ヒット作。

主人公のひろしが中学生で、しかも彼を取り巻く大人(梅さんとか南先生とか)に関する話題も多く、当時、小学校の2-3年だった自分は、この「ど根性ガエル」を読むと、少し背伸びをした気分になれたような記憶があります。

ど根性ガエル、第21巻より

「キャプテン」はもう好きすぎるので、別の回で続編の「プレイボール」と一緒に書きます。

ちなみに、好きな漫画家を3人挙げろと言われたら、私の場合、ちばあきお(キャプテンの作者)、小林まこと(1・2の三四郎の作者)、そして3人目は・・・あえて言うなら、水木しげる佐々木倫子か小林じんこか上条淳士か、という感じです。

キャプテン、第1巻。読みすぎて背表紙はビリビリ

キャプテン、第1巻より

ちなみに「キャプテン」は、週刊少年ジャンプではなく月刊少年ジャンプで連載されていました。「プレイボール」晴れて週刊少年ジャンプでの連載に。

そしてこれらは、当時のジャンプに連載されていた人気漫画です。

永井豪の「ハレンチ学園」や池沢さとしの「あらし!三匹」はいかにもジャンプらしいマンガでしたよね。

ちなみに池沢さとしはこのあとジャンプに、名作「サーキットの狼」を残しました。

侍ジャイアンツ」「アストロ球団」。巨人の星に続く、魔球もの野球漫画はこのころがピークだったと思います。

そして「包丁人味平」。第一話をリアルタイムで読んだ記憶があります。またここにはありませんが、今でも語り継がれている「はだしのゲン」もこのころでしたね。

いま、私が所有しているもっとも古い週刊少年ジャンプはこれ、1984年7月9日号。

キン肉マン」「北斗の拳」「Dr.スランプ」「キャッツアイ」「キャプテン翼」「こち亀」など、歴史に残る名作が多数連載されていたころです。

そしてこの翌年、1985年に「ドラゴンボール」の連載が始まります。ちょうど私がジャンプを読み始めてから、干支が一回りしたころです。

そしてそこからさらに干支が一回りした1997年「ONE PIECE」の連載がスタートします。

ドラゴンボール」と「ONE PIECE」の第1巻

このあたりになると、自分ではなく息子の時代となりますが、いまだに親子で、ジャンプに連載をしていたマンガで大いに盛り上がります。

番外編・ダブとファンクを観る①(ダブ)

強烈なライブへ二週間続けて行ってきてしまったので、これまでの流れとは全く違うのですが、本日は番外編としてレポートをします。

タイトルにあるダブとファンク、何?という方も多いかもしれませんが、いずれも音楽のジャンルです。生まれた国は違いますが、世界中に広がっていったのはやはり1970年代でした。

まずダブというのは、レゲエの楽曲に対し、エコーやリバーブなどのエフェクトを施して、ベースやドラムなどのリズムを強調したもの。

いまでこそリミックスとかサンプリングとか良くある話ですが、それらの元祖のようなものだと言われることもよくあります。

ダブは1960年代後半にジャマイカで生まれ、当時はシングルレコードのB面に使われる脇役的な存在だったのですが、1970年代後半からダブ処理をした曲自体が前面に出てくるようになりました。

また、ジャマイカからの移民が多く、レゲエのミュージシャンも豊富だったUKでも、ダブは広がっていきました。

UKダブの第一人者と言われるデニス・ボヴェールの1980年のアルバム。私が初めて買ったダブのレコードです。高2の時でした。

その影響もあって、1980年前後になると、UKのパンクやニューウェーブのミュージシャンがダブを積極的に取り入れるようになりました。

クラッシュ、ポリス、XTC、PIL、ポップ・グループ、スリッツ、メジャーなところではカルチャークラブ、日本でも坂本龍一などが、ダブや、ダブ的な音処理をした曲を多く生み出していたりします。

左は1980年にリリースされたクラッシュの「Sandinista!」。このアルバムでクラッシュは、ダブのみならず様々な音楽にチャレンジしました。右側はご存じポリスのセカンドアルバム「白いレガッタ」。B面1曲目の「Walking On The Moon」がしっかりダブしています。

左側はXTCが1980年にリリースした「Black Sea」。エンジニアのスティーブ・リリィ・ホワイトのダブ的な音の処理が光っています。そして出ましたカルチャークラブ。最初のヒット曲「君は完璧さ」のシングルのB面はダブ・バージョンでした。

そしてその当時、UKダブミュージックシーンをけん引していたのが、エンジニアでプロデューサーでもあり、自らダブのレーベルも立ち上げていたエイドリアン・シャーウッド(現在66歳)。

そのエイドリアン・シャーウッドがプロデュースをし、1977年に結成された人気UKダブバンド、クリエイション・レベル

ジャマイカ出身で1990年代にUKに渡り、UKのバンドと組んで全英ヒットチャートに何曲もの作品を送り込んだ、レゲエシンガーのホレス・アンディ(現在73歳)。

左はエイドリアン・シャーウッドがプロデュースをした、UKダブの金字塔的な作品ともいえる「The New Age Steppers」。右は同じくエイドリアン・シャーウッドプロデュースによる、クリエイション・レベルの代表作の一つ「Psychotic Jonkanoo」

前置きが長くなりましたが、この3組が、先々週、東京と大阪と名古屋で集結してしまったのです!

特に80年代前半、私は無類のダブ好きだったので、いまでも読み続けている「ミュージック・マガジン」のイベント情報のコーナーで彼らのライブのことを知った時には(あー、なんとアナログな情報収集なんだろう)、このメンバーと、そしてまだ彼らが元気にツアーをしているんだということに、衝撃と感銘を受けました。

そしてすぐにチケットを取り(こちらはもちろんオンラインで。プレイガイドにチケットを買いに走ったということはさすがにないです)、まぁこれに付き合ってくれる人は誰もいないだろうということで、一人で盛り上がってきました。

オープニングアクトを含めて4時間強、出演者の交代時に10分程度の休憩がそれぞれあったものの、スタンディングで踊りっぱなし。でもアドレナリンが出まくっていたせいか、時間の長さは全く感じませんでした。

エイドリアン・シャーウッドがDJを務め、その場でダブミックスをしまくりながら曲をかけていく第一部、オリジナルメンバー3人を含むクリエイション・レベルが、生のダブサウンドを炸裂させた第二部、そしてクリエイション・レベルをバックに、ホレス・アンディが73歳とは思えぬ高い、透明な声で1時間半歌い続けた第三部。

いや、この年になって、こんなものすごいものが観れるなんて、夢にも思いませんでしたよ。

ミキシングマシンを駆使しながらダブミュージックをクリエイトしてくエイドリアン・シャーウッド。なんと植木等の「スーダラ節」のダブバージョンをやってくれました!
クリエイション・レベルのギタリスト、クルーシャル・トニーとドラマーのエスキモー・フォックスは、結成当時からのオリジナルメンバー。

ホレス・アンディ、73歳。かつてのようなファルセットボイスはあまり聞けませんでしたが、地声でも十分声は高く、とてもいい味を出していました。

ホレス・アンディーとクルーシャル・トニーとエスキモー・フォックス。レジェンド感満載の三人。

で、終わったころには太ももとふくらはぎがパンパン。ライブ会場から最寄り駅までの道はちょっとふらつき気味。60歳の体は正直でした。

ちなみにどんな人たちが観に来ていたかというと、実は年齢層は意外に低く、平均35歳くらい。自分のようなオールドファンももちろんいましたが、若い人たちのほうが目立ってました。

またこの手のライブにつきものの、暴れるやんちゃな奴らも、ごく少数ですがいました。1990年代前半に、スカの某バンドを観に行った時も同じようなことがあったことを思い出し、一瞬、デジャブかと思っちゃいました(笑)

こういった若い人たちが多いのには理由があるようです。

今から十数年前にDJをやっている知人から聞いたんですけど、ある時期からダブは、クラブミュージックとしてテクノ、ハウスなどとともに、エレクトロニカの一つとして再評価?されていったそうで、そういったものを聞いてきた20代、30代の人たちの間でも、なじみのある音楽になっているようなのです。

まぁそんなこともあって集客がある程度見込まれ、ツアーも実現したのかもしれませんが、こういうのを観ると、ほかのレゲエのミュージシャンの来日も、あらためて期待したくなってしまいます。

シュガー・マイノットやグレゴリー・アイザックスやデニス・ブラウンなど。

って調べてみたら3人とももう亡くなっていますね。でもフレディ・マクレガーやイエローマンはまだ生きているみたい。そしてスライ・ダンバーも。

左がシュガー・マイノット、右がグレゴリー・アイザックス。もう観れないんですよね。たとえジャマイカに行ったとしても。

ここ最近「生きているうちに観ておかないと、後悔する!」と自分に言い聞かせ、ぴあや興行会社のSMASHから送られてくるメルマガをマメにチェックし、見逃しがないように努めています。

70年代、80年代に活躍したミュージシャンたちがいつまで生きているか?その前にいつまで日本にツアーで来てくれるか?そしてもっとその前に自分がいつまでライブに行ける体力と健康を保つことができるのか?課題は山積です(笑)

ということで、今回はダブのことだけでたくさん書いちゃいました。思い入れありすぎ?ということで、ファンク編はまた別の機会に!

少年将棋教室のほろ苦い記憶

小学校5年生になってしばらくして、友達の紹介で、家の近くの「少年将棋教室」に通うようになりました。

自分の祖父と同年代で、70歳を超えたくらいの、Uさんというおじいさんが先生で、自宅で子供たちに将棋を教える、小さな教室でした。

来ていたのは、自分と同じくらいの年の小学生。ほとんどが同じ学校に通う顔見知り。

それまで将棋は、父親や祖父と、遊び半分でたまに指すくらいでしたが、この教室に入ってからは、がぜん真剣に取り組み始めました。入門書なども買ってみたりして。

私が最初に買った入門書の巻頭の写真
当時は、大山・升田・中原の時代でした

その年の夏休みには、藤井聡太七冠の師匠である杉本昌隆八段の、そのまた師匠である板谷進九段の、そのまた父親である板谷四郎九段が主催する将棋大会に、参加したこともありました。

ただ数か月も経たないうちに、飽きっぽい子供たちは、その教室から2人去り、3人去り、多い時は10人以上がいつも顔を出していましたが、秋になる頃まで残っていたのは、たった3人でした。

その3人は、Y君とA君と私。ちなみにこの中で一番強かったのはU君。次がA君で、私が一番弱かった。この二人にはほとんど勝てませんでした。

先生はこの残った3人をとてもかわいがり、自分が持っていた将棋の駒や将棋盤を、贈呈してくれたりもしました。

先生ももうお歳だったので、次の世代に活用してもらいたいと思われたのでしょう。

ちなみに私がいただいた駒は、天童の彫師の方の作品で、「光山」という名前が付いたものでした。それなりの値段がしたものだと思います。

いただいた光山駒(将棋盤は私の祖父が持っていたもの)
玉将に「光山」と彫ってある 
右は天童の彫師の方(先生にいただいた「将棋世界」昭和48年7月号より)

しかし、そんなに良くしてもらったにもかかわらず、私も間もなく、その教室をやめてしまいました。私は2学期になってしばらくして学校の野球部に入部し、そちらに興味が移ってしまったのです。

加えてY君とA君になかなか勝てず、面白くなくなっていたというのもあったんだと思います。

先生にちゃんとお礼も挨拶もせず、なんとなくやめてしまった。やめるんだったらもらった駒を返して来いと、親に言われた気もしますが、それもしなかった。

近所だったので、学校帰りにたまに顔を見ることもありましたが、子供心にもとても気まずく、気づかなかったふりをしたことも何度かありました。

そのうち先生が住んでいた家はとり壊しとなり、少し離れた集合住宅へ引っ越していかれました。

それからはたぶん、お会いしていないと思います。

U君やA君は、私がやめた後も、先生のもとに通っていたようですが、それがいつまで続いていたのかは、よくわかりません。

子供って残酷ですよね。いまなら良くわかりますが、先生は私がとった行動に対して、ずいぶん傷つかれたのではと思います。

でも当時は、それを思いやれるほど心が育っていなかった。本当に申し訳なかったと、いまでも後悔しています。

で、こんなこともあったので、将棋は指さなくなってしまったのかというと、そんなことはなく、中二になると再び本を買って勉強を始め、同じクラスのN君と、お互いの家に行き来しながら、しょっちゅう指すようになりました。

私の勝率は4割程度でしたが、毎回、新しく覚えた定跡を試してみたりして、楽しく指していました。

いろいろ買って勉強しました 右下は、あの「ひふみん」の著書

そして中原誠名人戦を戦っているひふみん
向かって右側にひふみん、当時33歳、イケメンです
(先生にいただいた「将棋世界」昭和48年7月号より)

そのN君は、高校生になって(同じ高校でした)将棋部に入り、実力をメキメキと上げて、確か高2の時だったと思いますが、団体戦で全国3位になったという記憶があります。

今回はちょっとほろ苦い思い出を、書かせていただきました。

切手も集めた1970年代半ば

今日は、切手の収集についてです。

プロ野球カードを集める前に収集しだしたのが、記念切手でした。1970年代前半から半ばくらいにかけて、記念切手の収集が小中学生の間で、かなり流行してたんですよね。

切手のカタログです。眺めまくってたんでしょうね。左の2冊はボロボロです。

40歳未満、いや下手をすると50歳未満ぐらいの皆さんからみると、「いや、切手を集めてどうしたの?そんなに手紙をたくさん出してたわけ?」という感じなんだろうと思います。

今ではほとんど無くなってしまいましたが、当時、切手ショップなるものが、街のあちこちにけっこうたくさんありました。

通販も多かった。少年向けの漫画雑誌の裏表紙やその前のページに、よく広告が載っていました。

私が切手を本格的に集め出したのもやはり1974年。このあたりのタイミングでどうも私の中二病は始まったようです。まだ小五なのに。

この頃人気があった記念切手は、趣味週間シリーズの「月に雁」や「見返り美人」。「ビードロを吹く娘」に「えび蔵」。そして国際文通週間シリーズの「蒲原」や「桑名」など。

月に雁は、当時一枚22,000円でしたし、蒲原は4,500円。毎月の小遣いが2,000円とかの小学生にはなかなか手が出ませんでした。

人気の高かった切手趣味週間シリーズ。値段も高かった。

こちらは国際文通週間シリーズ。広重の「東海道五十三次」や北斎の「富岳三十六景」がデザインされてました。

そこで目をつけたのが、ちょっとマイナーだった国定公園シリーズとか国体シリーズ。

マイナーな分、値段が安いわけです。僕の周りの友達で、こんなのを集めている奴は誰もいませんでした。

でもまたそこがいい。マイナーだからいい。お小遣いの少ない身を恨みながら、自分にそう言い聞かせていました。

国体シリーズ。あまりぱっとしないデザイン・・・。これはカタログではなく本物です。

こちらは国定公園。国立公園ではないところがまたいい。

他にも、こんなのもあります。

これは使用済み切手。鹿の10円とか、金魚の7円とか、懐かしいですよね。

でも私の切手収集歴は、3年もせず終焉を遂げます。何故かというと、他の事に興味が移り、そこにお金をかけたくなったからです。

子供は残酷です。あっという間に気が変わる。それで子供心に苦い経験もしています。それはまだ次回にでも。

1970年代半ばのプロ野球(その2)

今回はお約束どおり1975年(昭和50年)に。

ということで、まずは皆さん、こちらをご存じでしょうか?

1975年にベースボールマガジン社の監修で発行された、「ワールドスタンドブック ミスターベースボール」なるものです。

当時、私が通学していた、名古屋市中村区の某小学校で、たいへん流行しました。で、中はどうなっているかというと、こんな感じです。

分かりやすく言うと仮面ライダーカードの長嶋茂雄版です。カルビーが出していたプロ野球チップスについていたカードとはもちろん別物で、カードを買うだけで、お菓子はついてきません。

カルビーのカードと違って、ストックホルダーのようなものに入れるのではなく、冊子に貼り付けるスタイルでした。

ライダーカードが、カード欲しさにライダースナックを買い、スナックを食べずに捨ててしまう子供がたくさん出るという、社会問題を引き起こしたことの反省からか、この冊子には「お母さま方へ」というタイトルで、「保護者の指導の下進めてください」などという文章が載っていたりします。

カード全部で288種類。8枚入り1袋50円で販売されていましたが、袋にどのカードが入っているかは分からないので、いくつも買っていると、同じカードがダブってきます。

そうなったら、友達と交換。そうやって集めていくのですが、それでも限界があるので、残りが一定の枚数未満になると、発行元の講談社に1枚7円で注文できる仕組みになっていました。

ただ私は、なぜかそれをせず、(めんどくさかったから?)結局、6枚が集まらないまま終えてしまいました。

下の写真の、39という数字が印刷されているスペースは、カードが張り付けてありませんが、これが集められなかったカードの一部です。

中日ファンなのに、なぜ長嶋茂雄だったかといと、うーん、はっきり記憶はありませんが、長嶋だけでなくて、セ・パ両リーグの、いろいろな選手のカードもあったからですかね。

そういう意味で私は、こあたりのページなんかが好きでした。

左上から、加藤秀(阪急)、野村(南海)、有藤(ロッテ)、村山(阪神)、山崎(ロッテ)、山口(阪急)・・・

このページは、高田、田淵、堀内、安田、藤波、谷沢・・・

人気のセ、実力のパなどと言われ、パリーグの試合がテレビで放映されることなんて、まずありませんでした。それでもパリーグの選手のことも一番よく知っていたのが、この時代でした。

ちなみに1975年は、広島が古場監督のもと、山本浩二、衣笠、外木場などを擁して初優勝。中日は二連覇を逃して2位。

そして巨人は長嶋新監督のもと、最下位に沈んだ年でした。

パリーグの優勝は、阪急ブレーブス山田久志山口高志の両輪の活躍で、日本シリーズも制しました。

こういった私のコレクター癖は、幼稚園のころから始まっています。ウルトラマンなど、円谷プロ系のテレビ番組や、ゴジラガメラなど、東宝大映など怪獣映画のいろいろなシーンをはがき大のブロマイドにしたものを、(私たちはこれを「写真」と呼んでいましたが)集め始めたのがきっかけですかね。

返す返すも残念なのですが、これらはどこかのタイミングですべて捨ててしまいました・・・

 

1970年代半ばのプロ野球(その1)

今回は1970年代半ばのプロ野球について。

ものすごくピンポイントですが、なぜこの時期かというと、この頃、私が最もプロ野球にハマっていたからです。

まず1974年ですが、中日が20年ぶりにリーグ優勝を果たし、巨人の10連覇を阻止した年です。

わが家は家族中が中日ファンで、しかも当時、中日の寮から自転車で5分くらいの所に住んでおり、必然的に中日ファンアンチ巨人になっていきました。

という事で1974年の優勝は、うれしくてうれしくて、小学5年生がなけなしの小遣いをはたいて買ったのが、これらです。

これは中日スポーツから出た優勝特集号で、1974年の全試合のデータと、試合解説が掲載されています。10月12日、大洋とのダブルヘッダーで連勝して、星野仙一が胴上げ投手となり、20年ぶりにペナントレースを制したことは、今でも記憶にしっかりと刻まれています。

そしてこの中でちょっとびっくりしたのが、9月2日の川崎球場での同じく大洋戦。観衆の数はなんと3,000人。後楽園での巨人戦には5万人、中日球場でもカードによるけど、平均で3万人近くは入っていたことを考えると、驚異的な少なさです(笑)

 

続いて左は、中日の応援歌「燃えよドラゴンズ」の初代版。坂東英二が歌っていましたが、この曲は彼がパーソナリティを担当していた、

CBCラジオの番組から生まれたという事もあって、ライバル局の東海ラジオでは、ボーカル違いの、別バージョンがかかっていた記憶があります。

そして右は、優勝記念盤として、東海ラジオが制作した、「オオ!われらがドラゴンズ~夢の優勝 待望の20年」です。私が初めて自分でお金を払って買ったLPレコードなので、かなりの思い入れがあります。

そして中日の過去も振り返りたくなって、こんな本も買いました。

現役時代の板東英二の写真があります。

このころすでにラジオで活躍していましたが、まさかあんな俳優になるなんて、当時は思いもしなかったですね。

今回は1974年の中日の優勝の話ばかりになりましたが、次回は1975年のプロ野球について、もう少し幅広く書いてみたいと思います。